はじめての瞑想10日間体験 inインド,ブッダガヤー

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*その昔、別ブログに書いていた記事をリライトして掲載します。

今回は2009年12月の記事です。

 

前々回の長期の旅に出ていた当時、インドに滞在していました(このとき2度目のインド訪問)。

実はその頃、初めてのインド訪問時に旅人から教えてもらったヴィパッサナー瞑想を修行してみようと決意していました。

インドでの瞑想にトライ

ヴィパッサナー瞑想は、数ある瞑想法の中でも少し特殊なもののようです。

この瞑想法を知ったのは、以前インド北部のリシュケシュのアシュラム(ヨガ施設)に滞在していた時に、ある日本人の旅人からです。

瞑想の話を聞いてからすぐにトライしてみたくなり、帰国して京都にあるヴィパッサナー瞑想施設の申し込みをしたのですが、すでに予約待ちだったため、その時は参加できませんでした。

なので、2度目のインド訪問時に、ビハール州にあるブッダガヤーのヴィパッサナー10日間コースに参加することとなりました。

あのブッダが悟った瞑想法

この瞑想法は、なんと25世紀前から存在します。

実はこの瞑想は、あのゴータマ・シッダッタ、いわゆるあのブッダが悟りをひらいた瞑想法として、世界中に広く伝えられています。

ブッダの瞑想法とはいえこれは仏教徒だけに限られた瞑想法ではなく、すべての宗教・人種の人々の間で行われています。

今回の私のブッダガヤーのコースでも、アメリカ人・カナダ人・フランス人・その他ヨーロッパ人・シンガポール人・日本人・韓国人・インド人と、国際色豊かな参加者が集まってきました。

どうしてこの様な瞑想を行ってみたくなったかというと、やはり、インドでヨガを習っていた影響が大きいかと思います。

本来、ヨガと瞑想は深い結びつきがあり、大きなヨガのアシュラムでは、個別に分かれた「MEDITATION ROOM」が備えてあることもあります。

しかし、この瞑想10日間の中では、ヨガやその他のエクササイズ等の運動は一切禁止されています。

この他にも、コース中には数多くの規則が設けられています。

厳しい制約の数々

大きな前提としてこのコースの10日間の間は、外との連絡がすべて遮断され、他の参加者との一切のコミュニケーションも禁止されています。さらに、

  • 生き物を殺さない
  • あらゆるものを盗まない
  • 性的なことは控える
  • 嘘をつかない
  • 薬物、アルコール類はとらない事

など、その他多くの制限があります。これらすべてを絶った上で、さらに守らなくてはならない事があります。

それが「NOBLE SILENCE・聖なる沈黙」です。

別名・崇高なる静寂。これに守られていないとこの瞑想法は意味をなさない といわれています。

この頃はこの施設以外は知りませんでしたが、ブッダガヤーの施設はその環境に適していました。コース終了後、他の施設を知っている参加者に聞いてみても、「ここは良い波動がある施設だった」と言っていました。

実際、この瞑想法を世界中に広めたミャンマー系インド人S・N・ゴエンカ氏の肉声テープを日本語訳にしたものもこの施設には備えてあり、英語力が不十分だった自分にも十分な理解を得られました。

はじめて行なった修行と大切なフレーズ

思い返してみるちと、今までの人生で「勉強」や「運動」、「訓練」や「試験」といったことはやってきましたが、「修行(瞑想)」というものを行ったのは、このときが初めてでした。

このコースに参加した人の話から、「一切のコミュニケーションをとれないのが、自分には一番きつかった」と聞いていましたが、自分には「自分の心との戦い」が一番のきつい事でした。

正直な話、コースの中で言われる事は、特段難しいものはありませんでした。

しかし、その分自分の心との対話・直面を必要とする瞑想なので、そのことにまったく免疫がなかった自分には、なおのこと堪えました

コースのテープの中で話していた言葉で、とても印象深い大切な言葉の一部を下記に記します。

私たちが苦しいと感じているもの、それらはすべて、あなたの心の中にある「嫌悪」「渇望」、そして、「無知」というものから生み出されています。

それらを、ただ観察しなさい。

冷静に、「平静」な心で。

ただ 観察し続けていなさい。

大切な事は、意識の連続性を失わないこと。

」というこの瞬間に気づいていなさい。

気づき続けていなさい。

これらの言葉をもらいながら、引き続き瞑想を続けていました。

その途中で、ある時、1つの大きな過ちに気がつきました

大きな損失と集中力の欠如

それは、この「今」という瞬間・時間を生きていながら、自分の意識は、この「今」ではなく、「過去」と「未来」への思考でいっぱいになっていました。

「この瞬間を意識すること」を怠り続けて、瞑想を続けていたのです。

それは、この「瞬間」、今のこの「一瞬」の中にのみ生き続けている「この意識」を、まるで享楽をむさぼるかのように、過去からの様々な回帰録を引っ張りだし、その思い出の喜びに浸り続け、さらに、起こりえない妄想や希望的観測を元に、楽観的な堕落を満悦していたのです。

このかけがえのない「今」という瞬間にしかない、本当に研ぎ澄まされたものをも察知できる「意識」というものを、戻れない「過去」と先の分からない「未来」という仕方のないい2つの中に埋もらせてしまい、限られた10日間の瞑想修行を大事にしていない自分を発見しました。

さらに、瞑想に入り込むための「集中」や「一切の他事に捉われない」といったものが、どれほど難しく、かつ大切であるか、瞑想の途中で何度も痛感させられました。

ひいては「自分の心の弱さ」、それを何度も直面しなくてはならず、いかに嘘の中に生きてきたかを思い知らされることとなりました。

その他にも沢山のことを感じ、時間を消耗していきました。

…しかし、なぜかこれほど駄目な自分にも、瞑想の途中でおそらくヴィパッサナー瞑想の第一段階のひとつの到達点に達する瞬間が訪れました。

到達して得られた「ある感覚」

その境地の感覚は、今でもはっきり覚えています。

それは、

「心」と「体」、「精神」と「肉体」は別個に存在するものなのだ 

と自覚できる感覚でした。

 

しかし、そのあとの第二段階の瞑想は、それこそがヴィパッサナー瞑想自体であり、とてもではありませんが、この10日間の間にその片鱗すら得ることは出来ませんでした。

このコースの中では、一切のメモや記録を取ることができないので、講義のテープの中から沢山の素晴らしい言葉をもらったのですが、それらはまた思い出し次第、ここに残していきたいと思います。

僕の友人に、この瞑想を別の施設で体験し、非常に素晴らしい言葉を残してる人がいるので、下記にその文面を転載させてもらいました。

この友人のように、素直で嘘のない状態には遥かに及ばなかった自分の瞑想体験も、少なからず、これからの人生を生きていく上でどうにか生かしていきたい と思っています。

ただこの瞬間に

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今日、ヴィパッサナー瞑想が終わり、下界に出てきた。

とってもすばらしい経験、機会がある人は是非10日間、 参加してみてください。

10日間(前後入れて12日間)、朝の4時から夜の9時まで。
沈黙の中、ひたすら、ひたすら、自分の感覚を、自然の中の真実を、
観察し続ける、今この瞬間の現実に、気づき続ける。

私たちは普段、置きながらにして、寝ながら夢を見ているようなもの。
心はあっちにいったり、こっちにいったり、
野放しにされ、過去、未来、想像の中にぼんやりとここにいる。
現実は、真実は、真理は常にここにあり、感覚の中には今という瞬間しか存在しない。

全ては移り変わり、私の体、私の心、そんなものも幻想、幻想…
幻想に渇望し、嫌悪し、執着し、苦しみは生まれ、
渇望や嫌悪すらへも執着し続ける。

心の奥、深く、深く、潜在意識の中にこの瞬間、無意識に行われる、反応。
私たちは、何にも、知らない、意識をしていない、
今、この瞬間、に気がついていない。

反応は接触することで生まれる。
良いも、悪いもない。
ただその現実を、観続けるだけ・・・
ただこの瞬間に。

自分の中に溜め込んできた、反応、無意識、習慣、
真理は頭で、知ることはできない。
理解することはできても、それは不可能だ。
なぜなら体験することでしか、
自分自身で、体験し、知ることでしか、気づくことはできない。

ただ、ただ、現実を観る。
これ以上でも、これ以下でもない、この現実。

私が知ることができるのは、
私の中に起こっている自然の法則、
それはまず体の枠組みの中で、感じている、
というよりも、私の体で起こっている現実こそ、
自然であり、真理。

それをただ、観察、し続ける。

我、自我。

純粋な愛は、ここに在り、私にも在り、いつでも愛は満ちている。
ただ、ただ、気がついていないだけ。
盲目なだけ。

体験、することは自分しかできない。
教えてもらうことはできない。
ただ、ただ、沈黙のうちに、黙々と、働くのです。

私はなぜか、誰から教えてもらったわけではないのに、
子供のころから仏教の教えみたいなことを考えている変な子だった。
だから、私は自分の中に起こっているその思想に、
自分を治めようとしてきた。

それは同時に、自分に起こる感覚を、見ないように、無意識に放り込むこと。
それをずっとずっと、やってきた。

ここ何年か、私は気がついた。
その無意識に放り込み観ないようにしていたことこそ、
私に起こっている今の現実、そのまま、そういうことである。

だから私は見始めた。
自分の、醜い部分、善という名を被せた汚れた部分。

でも、見ても、見ても、それはある。
私は評価し、それの無い状態を渇望してきた。

私は多分、今、この瞬間、道を歩くように意識するだけ。

希望や願いは未来にある。
想像のもの。

意思、は、今この瞬間に置かれている。

なんだか、私の旅の第二幕が終わった気持ちなのです。

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無垢な瞑想法

…このヴィパッサナー瞑想は、本当に穢れのない、無垢な瞑想法であり、矯正を図るといった感じではなく、「すべてのものへの慈しみ」を呼び起こさせるもの であると感じています。

興味を感じた方には、本当にお勧めできる修行であり、生き方であると思います。

さらに、最近自分の中で課題としていた「利己」と「利他」について、何度もテープの中でふれていて、道を見失っている人にも、その人自身の道しるべのようなものにもなるかと思います。

最後に、S・N・ゴエンカ氏の語りの中でも何度も出てきたフレーズであり、「慈しみ」が込められたこの言葉を、胸に刻む意味も含めて最後に記しておきます。

こんな心境が真に得られる様に、「平静」な心を持って、常に意識を持った状態に気づき続けていたい と思います。

MAY ALL BEINGS BE HAPPY

 

日本ヴィパッサナー協会HP
http://www.jp.dhamma.org/index.php?L=12

 

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振り返ってみると、この瞑想修行から目には見えないもの・スピリチュアルなものを求めるようになりました。

苦労の末、第一段階でかすかに得られたあの感覚から、その思いはより強くなっていきました。

この時から、合計15回以上もこの瞑想センターに関わっていくことになるとは、この頃は知る由もありませんでした。

 

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